「近世の村の脅し鉄砲」と題した講演会が、9/25(土)午後、中西 崇(なかにし・たかし)・聖光学院中学校・高等学校教諭によって講堂で開かれました。昨秋の企画展『松戸と徳川将軍の御鹿狩(おししがり)展』に関連した講演会がコロナで延期されていました。松戸在住でもある中西先生は、25人余の参加者を前に、持参の実物の"火縄銃"を分解したり、触れてみせたりされる。"江戸時代における銃の存在"、"松戸における4回の徳川将軍の御鹿狩の実情"を熱心に語られました。脅し(威し)鉄砲とは、百姓の鉄砲=火縄銃のことで鳥獣害対策用でした。
講演の内容は、1―火縄銃について:伝来・火縄銃の実物(構造)・実際の放ち方・命中威力、2―江戸幕府による在村鉄砲の取締り、3―松戸・小金牧における4回の御鹿狩の成果、と幅広く興味の湧くような内容になりました。ヨーロッパ側の史料では、"1542年に後期倭寇の船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着し、初めて日本に鉄砲を伝えた"とあるそうです。"またたくまに火縄銃は刀鍛冶らによって、国内製造が拡がったが、銃身のネジ部分は日本にはない技術だった"、"火縄銃の威力は、3匁5分筒の銃では,約90メートは真っ直ぐに飛び、200メートルくらいまでは殺傷力はある"、"火縄銃の保有状況は、江戸時代中期で武士層で8万丁、村には30万丁くらいあったろう"、"徳川幕府は、銃の保持規制には6,7度、関東地域へ鉄砲改めをおこなって制限をしていた"、"農村では、害獣被害の駆除とか猟師生業として、火縄銃の必要があった"と。"日本橋から十里四方は在村保有禁止"とか、"将軍鷹狩場では猟師鉄砲の禁止があった"、"松戸・小金牧での御鹿狩では、初回(1725年)鹿832頭だったのが、4回目(1849年)は29頭だった。猪・鹿の減少は新田開発がすすみ、薪炭生産の影響がみられる"と。
市内の根木内村の名主らが鷹場を管理する幕府の役人に"村内には不法な鉄砲保持者はいない"といった文書が出されたこと、持参された火縄銃をめぐり、その重さは3.5㎏・赤ん坊の重たさ、火縄銃は法律上は銃刀法扱いではなく、文化財扱いだが、実射には火薬の取扱い規制が面倒であること、銃身の中がさびないように整備がやっかいなこと、日本では火縄銃の実射できる場所は、千葉県営スポーツ射撃場など4か所にかぎられていること、江戸時代、各藩とも火縄銃のメンテナンスや払い下げなどで城下町には扱う店はあった、とも。興味深い話が続きました。 (m)
今後の講堂での講演会予定:いづれも13:00~15:00 募集人員は30人 *希望者は博物館のネット・往復はがきで!
◍10/30(土) 「古墳時代の葬送儀礼」 日高 慎 氏 (東京学芸大学教授) 10/14締切
◍11/ 6(土) 「古墳時代の祭祀と儀礼」 小林孝秀氏 (松戸市立博物館学芸員) *友の会共催 10/21締切
◍11/13(土) 「筑波山信仰の源流―巨石と水の神まつり』塩谷 修 氏 (川村学園女子大学教授) 10/28締切