市立博物館で『古墳時代の葬送儀礼』日高慎氏・東京学芸大学教授による講演会が開かれました。10/30(土)午後、同館の講堂で開かれ、50人席一杯でした。開催中の『古墳時代のマジカルワールド』に関連した講演会第二弾でした。内容は、➀古墳築造と葬送儀礼の痕跡、②もがり(殯)について、③首長権継承の場について、です。東国の古墳発掘を中心に、実例をもとにしたレジメ・写真・図表からの2時間、お話しされました。
お話の一部からです―
⦿当館での講演は、2010年に{渡来文化について}お話しして以来のことです。今回は、仏教に関わる部分は除きます。{古墳時代の葬送・儀礼について}を考えるきっかけは、10年前、このテーマで原稿依頼があってからのことです。横穴古墳を造り上げるには、場所の選定、整地・墓墳の堀削、石室の構築、周溝づくりや盛土、そして天井石のかぶせ、1次の墳丘完成、墳丘の沈下などから2次目の墳丘完成へ、といった過程が必要とされる。その段階ごとで各種の儀礼がおこなわれたとみられるが、墳丘の上とかちがう場所で儀式がおこなわれたのであろう。その遺構や遺物を見出すことは、困難である。(土地の表層部分で儀礼は行われることから、残存しがたい!)。古墳の発掘調査では、築造年代と出土する土器類の時期が異なることがある。これは、現代人でも30年忌とか50年忌といったように、後年に祭儀がおこなわれたりするからであろう。
⦿息をしなくなった、死んだということになっても、よみがえりはしない、ホントに亡くなったとなって墳丘に埋葬するまでを、ちがう場所で"喪に服する"≒もがり(殯)の儀礼がみられる。殯屋・喪屋は墳墓地域ではなく、少し離れたところにおかれたのであろう。さらに、集落の中やその付近の居住区域の比較的開けた場所に、"発掘調査では遺構・遺物の出てこない区画・エリア"がみられる。このゾーンは、集落のなかで、死者を送る段階での儀式や祭りがおこなわれたエリアとみられ、首長継承の場≒檀(だん)・壇上につながるのではないか。中枢の場所から南または西側に多くみられるようだ。檀の上では儀式が行われたのであろうが、遺物としては発掘されてはこない。王位・王権の継承の場を考えるとき、近年の天皇の代替わりにおける高御座(たかみくら)・大嘗祭のセレモニーは、参考になる。
⦿古墳には埴輪がみられ、とくに「人物埴輪」の例では、その配列、男女の仕草、形状など特色のある古墳例がいくつもあげられる。"首長権継承の新旧の儀礼"とされているが、{埴輪の意義については}諸説がある。葬列を意味してるとか、供養のためだとか、あの世を想定しているのだとか言われている。共通して、古墳・埴輪が公のものとして存在し、古墳の上に埴輪は置かれ、人々に晒されていること、大量に並べられていることが挙げられる。殯のときは人々に見せることではなかったことが、古墳ではちがう。古墳造成の位置関係や、どの段階で埴輪は並べられるのか?、生前に発注を受けている場合もあるのだろう、もともと作られているなかから選んでいるのか?。
(聞き手・松尾仙影)
*写真3は御即位大嘗祭絵巻大正4年(1915)・東京国立博物館蔵の一部を引用です。―編集部