講演会報告:古墳時代「家形埴輪(いえがた・はにわ)をよみとく」:望月幹夫館長 9/19

更新日:2022/12/27
掲載日:2021/12/01

 9/19(日)、秋晴れの一日でした。市立博物館では、午後から館長講演会として、望月幹夫館長から「家形埴輪をよみとく」の講演会がありました。なお、市民向け講演会:友の会20周年記念{徳川昭武と渋沢栄一 ドラマの背景を探る—1867年パリ万博を中心に―}斎藤洋一氏・TV大河『青天を衝け』時代考証担当。1月14日金・14時~16時、森のホール小ホール、無料。150人。参加申込先→ https://sites.google.com/view/tomonokai2023 こちらにもご参加ください。

 はじめに"埴輪(はにわ)とは何か?"という概略の説明。埴輪は3世紀後半から、7世紀末までの400年余り、古墳に立てられた祭祀用土器品であった、とのこと。{埴輪は円筒埴輪と形象埴輪に分類され、形象埴輪はさらに、器財埴輪、家形埴輪、動物埴輪、人物埴輪に分けられる。円筒埴輪は、初期の頃から古墳時代の最後までみられる}とのこと。{4世紀になると、器財埴輪(盾・蓋など)、家形埴輪、動物埴輪のうち鶏・水鳥が現れる。人物埴輪が現れるのは5世紀後半と最も遅い}と。なお、『日本書紀』には、埴輪は殉死の代わりに作られるようになった、という記述があるが、実際には円筒埴輪が最初に作られ、人物埴輪は最後に現れたので、『日本書紀』の記述には誤りがあることになる。

家形埴輪(いえがた・はにわ)について、古墳時代前の弥生時代の家形土器とは、どこがちがうのだろうか?。弥生時代の家形土器は、次の年のための稲籾を保管しておく「容器」と考えられ、葬送儀礼用の埴輪とは区別されるとのこと。
 埴輪の家を考える時には、鏡に描かれた家が参考になる。奈良・佐味田宝塚古墳から出土した鏡「家屋文鏡」には、高床住居・平地住居・高床倉庫・竪穴住居が描かれ、高床住居と竪穴住居の入口には、高貴の地位者を表す傘がえがかれている}との写真・資料の説明。鏡に描かれた家と埴輪の家と、どこが同じでどこが違うのか較べてみるのも面白いかも。
 家形埴輪が古墳のどこに置かれたか?というと、4世紀の前方後円墳の例では{後円部の中央を掘りくぼめて被葬者を安置して埋め戻した後、周囲を円筒埴輪で方形に囲い、その内側に各種の家形埴輪を置いた}と、実例紹介が続く。この家形埴輪が大切そうに並べ置かれている理由は?{生前の住居をあらわしているのか?、死後の世界での住居をあらわしているのか?}と。その後、埴輪の種類が増えてくると、形象埴輪の置き場所が墳頂部から墳裾部に移ってくる。
 各種の家形埴輪の中に、「囲形埴輪(かこいがた・はにわ)」と呼ばれる埴輪がある。塀をぐるりと鍵形に回し、出入口を一か所設けたものだが、これがどんな建造物を表しているのか謎だった。研究の結果、水に伴う祭祀を行う施設らしいということがわかってきた、という興味ある例示。
 {6世紀に入って、朝鮮半島から横穴式石室におよる埋葬方法が入って来た}と。それによって、形象埴輪(けいしょう・はにわ)の置き場所も、墳丘の上から石室の入口付近に変わってくる。「大阪・今城塚(いましろつか)古墳」のような大型の前方後円墳では、墳丘を囲む周濠の外に作られた区画に形象埴輪がならべられた。関東では、6~7世紀の古墳に埴輪がたくさん並べられたが、人物・動物・器財が多く、家形埴輪は首長の住む家くらいになってしまう。{松戸の栗山古墳は6世紀で、人物・馬・器財などの埴輪が出土しているが、これらの埴輪は群馬の埴輪に似ていて、群馬で作られて松戸まで運ばれてきたものと思われる}とのこと。
 最後に、「家屋文鏡」に描かれていた竪穴住居を模した埴輪が、宮崎・西都原(さいとばる)古墳から出土している。重要文化財になっている有名な埴輪であるが、竪穴住居を模した埴輪はこれだけである。これも家形埴輪の大きな謎であるそうだ。(聞き手・松尾)(◎も)

98110cfb293ef01bb1840d2a271fa8b0
E00f9ce241a5007916399002b1bf1a71