講演会報告:「戦国時代/松戸まわりの四方山噺{伝承と史料}」中山文人/学芸員 2/19終わる

更新日:2022/12/26
掲載日:2022/02/19

 冷えこむ二月の土曜、熱心な中世フアンが集まりました。おなじみ中山文人学芸員による松戸市あたりの中世後半、そう、"鎌倉殿のあと、300年後"、"足利時代末期,戦国時代の松戸・小金(こがね)城時代≒高城(たかぎ)氏"にまつわる講演会でした"。2月19日土曜、午後、博物館講堂。演題「戦国時代/松戸まわりの四方山(よもやま)噺(ばなし)」。抽選いっぱいの30人余が、2時間、かなり専門の中身をさりげなく、教えられたひとときでした。友の会の共催事業。
  3つの資料を紹介されながら、今日のテーマは{伝承と史料}-"ホンモノの史料を見ること、確かめることなく、また、新しい史料に基づくことをしないで、誤りのまま引用されたり孫引きされたりでは困る。いまはネットで誤りが広く拡散され、事実と思われてしまうのは、困る事です!"と強調される。今回は史料3点をもとに、記述内容を読み下しされ、それらの正確さや誤認箇所を逐一、別資料と比較され、解説されていかれました。

  以下、配布史料へのひとこと―
➀『高城下野家記・上巻』(たかぎ・しもつけ(の・が)・かき・じょうかん)―江戸時代の狂歌師・四方赤良(よもの・あから)こと大田南畝(おおた・なんぽ)の収集本で、市立博物館も一冊所蔵。天文11年(1542)、{入間川の合戦で上杉方は大敗北で、3万人以上の戦死者。高城下野守殿は敵の大将を討ち取る功名を遂げ、北条氏康もこれ以降、権力を巨大化}の記述。これは{天文15年(1546)の川越合戦のことらしい}。小田原落城の頃、高城氏が小金(こがね)城を退去して間もない頃に書かれたようだ。本書には"一つとして誠とするところ無し"とまで記載されているとのこと!。『千葉県東葛飾郡誌』の紹介。*大正6,7年ごろの全国の県誌/郡誌/市町村誌の存在について。
②『高城家由来書』(「小金城主高城家之由来」とか「八木原文書」とも云われる)―高城氏が小金城退去後、50年以上あとに書かれた由緒書らしい。内容を精査すると{高城氏は1506年,初めて松戸市内の栗ヶ沢(くりがさわ)を領し、2年後、根木内に一城を構えた。1530年には小金城を築城し移っている}。鎌倉時代から小金は重要な地だったようで、発掘調査もされ中国産陶器も出ており、中世城郭の様子が明らかにされているとのこと。{周辺の東漸寺(とうぜんじ)、万満寺(まんまんじ)の戦時の利用や、大勝院(だいしょういん)、広徳寺(こうとくじ)の由縁}も語る。この由来書は松戸の歴史紹介には功績のあった故・松下邦夫氏の著書『松戸の歴史案内』(1970年頃発行)にも引用されているが、その後の資料から新しい事実や解釈が出てきている話も。*由来書に出て来る土地名、人物名などが興味や関心を呼ぶことにもなってるそうです。
③『北条家朱印状・天正12年、高城源次郎宛』―1584年、北条氏の重臣が、小金城主へ徳政令のことで損害がでないように通知した文書。1590年には、小田原の北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、高城氏も小金城も役割を終えます。それまでの150年ほどは争乱、戦国期で、城主も武士も"お金"の出入りには、苦労していたようです。{この朱印状の背景は、高城氏は簗田(やなだ)領に兵糧を貸したが、戻ってこない、相手側は"徳政令がでたので、返さなくていい!"と言っている状況}です。文面には、{簗田領だけに徳政令を出すわけがない!}と,高城氏に返事してます。"徳政令は誰が命令できて、どこまでの範囲に出しているのか?。その当時、合戦に伴う"お金・恩賞・借金"の話でした。関東における北条対反北条の動きは、生き残りへの厳しさ。*『戦国時代の終焉-北条の夢と秀吉の統一』齋藤慎一・2019刊・吉川弘文館の紹介もありました。
(聞き手・松尾・)(N)

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