講演会報告:「古文書から探る松戸の江戸時代」富澤達三/学芸員 7/31 会場いっぱいへ

更新日:2022/12/26
掲載日:2022/07/31

 猛暑日とコロナ七波の中、博物館講堂が久しぶりに埋まる約70人の参加者。{江戸時代の松戸}の講演会が開かれました。題して「古文書から探る松戸の江戸時代」を富澤達三/学芸員でした。展示中の『古文書をみる 絵図をよむ』((8/28まで)の解説でもあり、当友の会と学芸員による共催講演会でした。

 講演の前半は、{江戸時代における村≒ムラの姿について}の解説でした。後半は、展示中の古文書のなかから、松戸におけるムラの地図、離縁状、借金証文、ほうそう(疱瘡)やペリー来航のときの{かわら版}などの紹介でした。アンケート結果では、地元の松戸の江戸時代の姿が、"具体的にみえてきた"、"興味深く聞くことができた"とありました。
 
 講演の一部から*配布資料も参考  
○江戸幕府は全国を検地し、村々の生産力を「米の生産高=石高(こくだか)」で把握。税は主に現物の米(年貢米)で徴収した。税は各個人ではなく、「村請制」(むらうけせい)といわれる"村全体で払う"。各個人で税を支払う現代とちがいます。
○村内には村人による三役人(名主なぬし・組頭くみがしら・百姓代ひゃくしょうだい)が選ばれたりして、年貢の米集め、宿場の人足・馬の提供といった助郷役(すけごうやく)といった村としての責任を負った。
○今の松戸市域には、約60のムラがあった。全国には6万5000の村があったという(1834年)。一つのムラの概念図は、中心部の集落、周辺部にノラとも云う田畑耕地、外周部に林野の入会地(いりあいち)となる。中心部には集落として主要道路や寺院、神社が存在した。江戸時代は、キリスト教が厳禁とされ、毎年、宗門改めとして、各戸の檀家が確かめられていた。その記録が、今日では人口動態の資料になったりして役立っている例がある。
○村の領主は、➀江戸幕府、②直参家臣の旗本、③大名・諸藩、のいづれかだった。幕府の直轄地は、幕末で400万石以上、旗本領260万石ほど。旗本は約5200人、うち知行地(ちぎょうち・領地)を与えられたものは半分ほど、他の旗本は、米を支給される「蔵米取(くらまいどり)」だった。旗本たちには、領地を分散されて与えられ、複数の領主が一つの村を分割するという「相給村落」(あいきゅうそんらく)が多かった。
○今回の館蔵資料展では、松戸市内で名主だった2家、大谷口(おおやぐち)村と秋山村との古文書から、江戸時代を紹介している。大谷口『天保郷帳』(1831年・天保2年)では、村の石高は236石、隣の小金町に助郷、近くの上野牧と高田台牧へ野役、後の資料では、戸数41,人口243、厩23、船21、鎭守は神明社、寺院は真言宗大勝院と日蓮宗常信寺とがあります。
○秋山村は、武田信吉領から旗本梶川氏領を経て、幕府領へ。『天保郷帳』では289石。村の鎭守は春日神社、寺院は日蓮宗慶国寺。助郷は松戸町に出役、小金牧御用として中野牧に野役。1891年(明治24)の戸数51,人口270とある。 (聞き書き・松尾)

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