講演会報告:「近世松戸と鮮魚流通」出口宏幸氏/江東区文化財、語る 8/6

更新日:2022/12/26
掲載日:2022/08/06

 展示中の{江戸時代の松戸の古文書を読む}に関連、第2弾として、出口宏幸(でぐち・ひろゆき)氏・江東区文化財主任専門員による講演会が開かれました。「近世松戸と鮮魚流通―銚子から日本橋への道」でした。8/6(土)午後、講堂、50人余の熱心な参加者でした。
 江戸幕府が開かれ、江戸の人口が増加してくると東京湾の魚だけでは不足、相模湾からと房総沖との2海域から、日本橋の魚河岸に海産物が運び込まれるようになった。江戸時代中期から明治維新前後、2,300年前からの鮮魚(なま)流通のエピソードなど。そして、松戸宿は銚子からの鮮魚(なま)を、重要な中継地として河岸(かし)問屋が存在したこと、三日目の日本橋朝市に間に合わせていた。幕府のお買い上げの値段が、"安すぎ"で起こる実態。当時の町場の様子は、どのようだったのか?。地図として、➀銚子から~利根川(80Km)~木下・布佐~手賀沼南側~五香・六実~松戸新田~(布佐~30km)松戸、②松戸~江戸川~中川~(番所)・小名木川~日本橋(界隈の江戸地図)をみながらの説明でした。
  レジメの項目は、
{1,鮮魚流通の終着点「日本橋」}として、幕府・将軍家への鮮魚収めの役割を「日本橋四組問屋」が取り仕切ったこと。銚子の地元に仲買や"網元"に資金が提供され、流通の確保の努力も。
{2,当時の松戸町の概要}では、もともとムラだった松戸が、水戸道中の宿場町でもあり、銚子からの鮮魚(なま)の中継河岸としてもにぎわってもきたこと。当時の家並や店の種類などを具体的な数字で紹介へ。
{3,幕末期の利根川輸送}。せっかく銚子から運ばれてきた鮮魚が途中の荷抜けや他所の河岸へ抜け売り、幕末期には、、"日本橋の魚市場に、無事には運ばれなかった"実情の話へ。なかには、"中川の船番所の硬骨サムライ"から、夜中の通行にいちゃもんをつけられ、松戸から船問屋の源内(げんない)さんがかけつけ、"内々に始末をした"裏話のお話もありました。
 質問には、"利根川を高瀬舟で、銚子から関宿を通って松戸へ下って着たあと、帰りはどうやって戻ったんですか?"、"鮮魚(なま)を少しでも腐らないように、途中で、臓物を取ったという場所があったそうですが?"と、ありました。
 
以下、講演の一部から
⦿利根川の河口近くの銚子沖に飯貝根(いいがいね?)という好漁礁がある。房総の漁獲輸送では、江戸初期には、魚篭を載せた船は銚子を出て、利根川を遡った。関宿を廻って、江戸川(当時は、利根川の名称)に入り、松戸河岸まで運び、さらに江戸の日本橋の魚河岸まで輸送していた。しかし、江戸の人口増大、商品経済の発展で需要が増し、冬場の江戸川の水量減少で、輸送の困難もあって、利根川の木下(きおろし)や布佐で漁荷をおろし、陸路から30キロの松戸の河岸へ馬荷で運ぶようになった。 
⦿松戸の場合、もともとは農村であったが、水戸道中、約1kmの宿場町としても発展。江戸時代、おおむね330軒、人口1500人、村高約750石、10町、82業種の職業一覧の記録が残っているそうだ。*現在の松戸市域からみると、約60村のうちの一つのムラにあたる。小金町、馬橋村とともに賑わいのムラだった。合併の歴史は近年100年史へ!(松)。
 (聞き手・松尾)

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