講演会報告:{江戸時代の小金宿とその周辺}渡辺尚志館長終わる 9/18

更新日:2022/12/26
掲載日:2022/09/18

 台風14号の雨風の吹くなか、4月から新館長となられた渡辺尚志氏から{江戸時代の小金宿とその周辺}と題した講演会が、当博物館講堂で開かれました。悪天候にもかかわらず、80席の8割は埋まる聴講者が、300年前からの江戸時代の交通体系、助郷制度、ムラ同士の紛争例など、身近な小金宿に的をしぼって解説されました。講演後の、質問時間には、参加者から、言い伝えや確認の活発な話が出て、地元ならではの実証的なひとときとなりました。
                     〘 前 半 〗
◍レジメの柱は、1―江戸時代の交通体系と小金町。2ー小金町と助郷(すけごう)村々との対立例、3―適正な伝馬役(でんまやく)負担を求めて、4―小金町と農業≒道路修理をめぐる村との紛争和解例です。講演のほとんどは、古文書、松戸市史資料編からの、紛争の経過と解決の実例紹介です。問題点と解決へとは興味を呼ぶことです。
◍江戸時代の小金宿の地図をスクリーンでみていただき、現在地と比較していきます。水戸道中における本陣・本土寺・東漸寺・一月寺などの概観を確かめましょう。"総州葛飾郡、高694石、小金町"のイメ-ジを確認。そこに生活した人々の暮らしへ迫っていきましょう。
◍交通体系の特色として、街道の宿場町、隣村まで人・ものを運ばなばならぬ「継ぎ立て」制度があり、武士優先の一定の無賃・運送義務がありました。さらに、不足分を近郊の村々が負担する「助郷」制度があったことです。この負担が今回の主なテーマ、課題でもあります。水戸道中は、江戸日本橋から水戸まで約120Km、19の宿場町があり、小金町はそのひとつであり、水戸家のお鷹番所もあった。1789年の記録では小金町―169戸・610人となってます。
                〘休憩後、後半〗
◍近隣村からの応援となる助郷は65か村、幕末になるほど、交通量は増え、その負担は増していった。小金町と周辺の助郷村々との負担をめぐる紛争があり、1803年の幕府への訴訟の経過例を追いましょう。訴える村々は、負担の歴史や実態を、訴えられた小金町側は仕事量や事務量の増大、小金牧の修理、江戸川の治水工事の負担を主張してます。その結果の和解は、「継ぎ立て」の問屋と問屋場運営の{日々の明細化・ムダの見直し・積立など}改善を示してます。対立と和解のなかで、協力しあっていった宿場と村々の姿が見られます。
◍小金町は宿場だけでなく、、領域に江戸川に近い低地に新田開発もすすめ、下谷(したや)と呼ばれる耕地を持っていきました。この耕地は、馬橋村・古ヶ崎村・伝兵衛新田などの耕地と入り組むように接していた。1751年秋の出水で、小金町の領域内にある{長津堤という堤防の上を通る}農道が崩れた。翌年2月、小金町の百姓たちが作場道の修繕工事に出向いたところ、知らぬ間に古ヶ崎村と伝兵衛新田の百姓たちが(事前に役所の許可を得て)既に工事をすませていた。小金町側は再度(自分の領域内のこと、堤に高低差が出たので)、無届で修復し直してしまう。両者の言い分と役所≒武士の面子のこともからんで、この紛争の解決には、融通を聞かせた解決がみられました。
◍とかく江戸時代というと、"百姓は、武士に一方的に泣き寝入りさせられているだけ"のイメージが強い。しかし、小金町の実例からみると、"従うばかりではなく、あくまで自己主張もし、生活を守るというしたたかさも見せていた"。武士の面子ということも立てながら、"実利を取るという、おとしどころも見つけていた"ことが示されている。江戸時代の実際の生活・暮らしをみていきたいことです。 (聞き手・松尾)

669e9efe4241be826cb4fa3ec8ab02ec
6a746f5286ec914a8fcaec6b6f417ebd
19d431485c639256c084265953fb5c53