中世の会12月例会:1500年代前半の常陸・下野情勢、後北条氏の東国進出
冷たい風が吹く中、中世の会(中世の東国講読会)の12月例会が、12/13金に実習室で開かれました。13人、半数は80歳代!、60代が若手の集り。{『動乱の東国史⑦ 東国の戦国争乱と織豊権力』―常陸・下野の情勢}。輪読当番の勝部会員は、{家を出るぎりぎりまで、読んできたが、よくわからん!}と言って、席に着く。 ◎始めに、前月までの第一次国府台合戦(1538年・天文7)、「川越合戦」(1541年・天文10)で、質問が出たことへ。萩原会員が解説へー”当時の地方の国府と中央の朝廷との組織・連絡はどんな様子だったのか?”、”若狭の守(わかさのかみ)といった官位の呼称は、朝廷の許しがなくても、勝手に名乗れたものか?”への回答例。”律令制のしっかりした時代には、国司は一年に4回、交代で都に所定の文書を持参して中央の朝廷へ報告に出向いていた。例えば、「大帳使」という使者の場合、大計帳という26種類の戸籍類の帳簿を奈良まで運んでいた。”。”官職の呼称には、「官途状」といって、朝廷にあっせんを保証するとか、被官に大名家の中で私称する慣習もあった”。資料を配布してくわしく説明へ。 ◎今月の講読に入る。1520年~40年頃、南関東では古河公方・両上杉氏・北条氏の覇権争いが軸となり、各地では領主間の複雑な対立抗争が続く。下野北部では那須一族の内紛、宇都宮氏の利害対立、小山氏では正統の系図から抹殺といった家督争い、東条荘(稲敷市)をめぐって小田氏と土岐氏と対立。佐竹氏は地域権力としてそれをくぐりぬけていく。川越合戦を転換点として、北条氏の台頭、山内上杉氏の没落という局面に入る。*各地域の武将名や人物・勢力の入り混じりの関係に、講読者の苦労に同情!。引用の「那須洞忩劇」(なすうつろそうげき)について、そういう文書があるのか?が宿題へ。 |