学芸員講演会報告140回:松戸の中世を深める/増やすー風早・秋山・高柳 中山文人氏
全国的な冷えこみのなかでした。{中世の松戸の歴史}とくに市内の{風早・秋山・高柳}の3地区を”深堀り・推し”へ。題して『松戸の「中世を増やす」試み』、中山文人学芸員の講演会でした。2/8(土)、博物館講堂、70人の歴史好きの”寒いなか”での参加でした。おつかれさん! ○資料は、2種類。古文書や出典のレジメと近世56村の松戸の地図や中世の関連文書の一覧表です。休憩を挟んで、前半は1ー日本史における中世って?、2ー松戸市内の町村で、中世には存在していたところは、いくつあるか?。3ー具体的な場所を、その地域の中世を深堀して、研究を見直してみる!。後半は、①風早(かざはや)郷、②秋山、③高柳(たかやなぎ)、この3箇所を、”地域限定”し、中世の歴史を専門解説へ。”従来の松戸域を超えて、調査を拡げてみよう!”と。以下、一部を紹介します。 ○{いつから、いつまでが中世って?}。最近は、藤原氏の介入を避けた{院政の開始から足利15代将軍の追放あたり}と、100年くらい、以前より長くみられるようになってきた。しかも、{地域ごとで中世の終末時期は、異なるようになってきている}そうです。 ○{現在の松戸市の範囲をもとに、中世の頃の地名をかぞえてみると、41町村のうち31(75%)が中世に存在していた!。江戸時代に新田開発とか、明治維新の開拓や戦後の開発で開けた場所も多い市内。”自分が住んでいる町が、中世には存在して、人がいた”となれば(”愛着が)わくでしょう!。中世の資料は少ないなかで、松戸の『本土寺過去帳』は、地名・人名・年代がわかる重要な資料なのです。鎌倉時代に多く作られ、江戸時代にはなくなった「板碑(いたび)」は、関東で、4万点はある供養碑ですが、歴史学として資料になっています。 ○台地を走る新京成線の「松戸新田駅」から近い場所に、「風早神社(かざはや・じんじゃ」があります。{「風早」というのが、いつごろからあったのかは不明です。鎌倉時代の日本60余州の地図に、伊勢・香取・鹿島の3つの神社が載っています}。その香取神宮の古文書に「風早」の名前が出てきます。式年遷宮の造営負担に際し、千葉一族のなかに風早四郎なる人物がでてきます。千葉一族の風早氏は、鎌倉殿の幕府に奉公する存在であったが、鎌倉末期にはその姿が見えなくなる。風早郷は南北朝時代にも香取社造営を支える所領として見える。 ○松戸市南部、市川市国分と接する地区に現在「秋山」がある。下総台地の先端部、徐々に傾斜して、西側に国分川、春木川が流れる。一方、松戸市高塚新田を挟んで市川市大野・鎌ヶ谷市中沢が東方向へ連続する。秋山は松戸市秋山とも市川市曽谷付近とも、地名辞書は分かれる。千葉惣領家からの中山(法華経)寺や弘法寺の古文書を説明。中世の八幡庄・千葉氏惣領家の研究が求められる。 ○松戸市内最東部の「高柳(たかやなぎ)」について。風早村・沼南(しょうなん)町・柏市沼南地区と変遷しながら、その一部だった大字高柳。江戸時代、高柳新田として開発された。相馬御厨(そうま・みくりや)の領域に属してきた歴史から、さらなる歴史研究の分野になること。 *皆さんが、歴史散策や見学会に参加されるとき、次の2点のコピーを地図とともにおすすめします。①『角川日本地名辞典12-千葉県』1984刊・900頁,②平凡社『日本歴史地名体系12巻・千葉県』1996刊・1300頁。いずれも、西部図書館コピ-可能。{近年、博物館法は改訂され、各種資料の収集・保管・展示から、その教養・調査研究、レクリエーション等に必要な事業を行い、あわせて研究します} |