{坂川の改修をめぐってー川と向き合う江戸時代}渡辺尚志館長講演会 11/11終わる

更新日:2023/12/13
掲載日:2023/11/11

松戸市立博物館・館長講演会は、渡辺尚志館長により{川と向き合う江戸時代―坂川の改修をめぐって}と題して、11/11(土)、講堂で開催されました。約70人方が、松戸市内にながれる坂川(さかがわの)歴史を学びました。ていねいなレジメには、要点や古文書の現代語訳、カラー地図が記載され、歯切れ良い解説を聞き入ることになりました。以下は、お話の一部をご案内します。

〇松戸市の地形は、下総台地の上部と下部とに分かれ、下部(下谷・したや)には江戸川や坂川が流れている。戦国時代までは、下谷一帯には人は住まず、耕地もない湿地帯であったが、17世紀(江戸時代前期)になると新たな村(新田・しんでん)が成立した。九郎左衛門(くろうざえもん)新田・七右衛門(しちえもん)新田の例。集落や耕地ができることで、水害が生まれることになる。                                      〇水害に悩まされ、”三年に一度、米が穫れればよい”と言われるなか、下谷の百姓たちは、17世紀末に開墾が一段落すると、坂川の改修に取り組むことになる。1760年(宝暦10)には、川底の土砂のしゅんせつ、流路の変更、土手の建設などを幕府に願い出る。これは、坂川沿岸の幕府領10か村が幕府に主な負担と百姓自らの負担による案だった。しかし、台地上や台地縁の台方(だいかた)の村々は反対であった。堤防を築いても水害が防げるのか?、人足を出す負担の是非の問題があった。                                              

〇1781年(享和元年)、鰭ケ崎村名主の渡辺庄左衛門らによって、12カ村が初めて坂川の流路を南方(松戸宿・小山・矢切方面などの下郷へ)へ延長することを出願。以降、約60年間、坂川の流路延長は説得と実現へ尽力され、堀り継ぎされていくことになる。1834年(天保5年)、下郷村々+坂川組合村々+鰭ケ崎村との合意へ。(ー講演の主たる部分は、おりおりの願書、反対の意見、事件、その成果や課題が述べられていきました。)1836年(天保7)、ルートの延長が実現し、坂川の流路はほぼ現在の柳原水閘までの姿になる。こうして、明治以降の坂川周辺の農業発展の基礎が築かれたが、水害とのたたかいは続く。     

〇江戸時代後半、坂川の改修が実現できた要因をあげる。村々を結集してネバリ強く幕府に働きかけたこと、具体的な改修プランを提案していたこと、地域有力者の政治的な交渉力・私財提供・工事請負があげられる。                   (聞き手・松尾) 

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