講演会報告:{庚申講とはなんだろう?松戸の江戸時代}富澤達三学芸員 3/16
今年度7回目、友の会共催による学芸員講演会が3/16(土)午後、博物館講堂で開かれました。富澤達三・松戸市立博物館学芸員、題して、「古文書からさぐる松戸の江戸時代―庚申講とはなんだろう」です。80席が埋まる参加者でした。 大半の方は、庚申講/塔(こうしんこう/とう)という名は聞いていたが、内容を聞くことは初めてだったようです。”松戸にもずいぶん多くの庚申塚(塔)があるんですね!”と、納得や感心の声が寄せられました。一方、”もっと、くわしく「講」のことや「塔・塚」のことを知りたかった!”と、研究熱心な方もありました。講演では、レジメとカラー刷りの絵図・図表が配られ、画像による紹介の2時間となりました。 *レジメはA3裏表2枚(内1枚がカラー図版)。(1)江戸時代の松戸の村の説明、村における民間信仰のようす、(2)石造物から考える民間信仰、庚申信仰がはやった江戸時代、庚申信仰とは?、庚申講と庚申塔、『松戸市石造物遺産』(2017年・万葉社)紹介、(3)古文書からさぐる庚申信仰―大熊家文書から、大熊伊兵衛と流山の石工・平吉のこと、(4)石造物・文化財としてのひとこと。 〇以下は、講演内容の一部からです。 〇江戸時代の税は、検地により”米がどのくらい穫れるかが基本”であり、村請制(むらうけせい)という、各個人ごとではなく村が連帯責任で納める仕組みだった。村には土地を鎮め、豊穣を祈る村の神社=鎮守様があり、村人で祭りを行ってつながりを深めた。 〇庚申信仰は、中国の道教の説にもとづき、京都の貴族の間で信じられていたものが、庶民にまで広まったとされる民間信仰。{人間の体内に三尸(さんし)がいて、60日ごとの庚申の日に、寝ている人から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げ口し寿命をちじめる}。そこで、皆で徹夜して三尸が身体から出ないようにするという。 〇3~7年くらい講が続くと、成就とみなす、長命や安楽、記念のための「庚申塔」を建立した。庚申塔には、道教の神・青面金剛(しょうめんこんごう)や三猿の像、日月などが彫られた。文字だけにしたり、小型化になっていくことに。松戸には324基が残っていたという。 〇(今回の講演の主眼として)大谷口(おおやぐち)村の名主である大熊伊兵衛(おおくま・いへい、代々)は、安政7年(万延元年・1860年)、「百庚申(ひやくこうしん)」(”100基(たくさん!)”を建て、いまも大谷口・神明神社に一部が残っています。その「建立帳」には、寄付者の名前・寄付額が記されている。小金町の野馬奉行である綿貫氏や流山の石工である平吉の名がある。平吉の残した「代金請け」書類への詳しい”追跡解説”をする。 〇江戸時代、多くの石造物が作られたのは、村の生産力が上がって人口も増え、村民の結びつき、自立、余裕を物語っている。現在、多くの石造物がすり減り、移動や破壊が増している、地域の文化財として継承していきたいことです。 (聞き手・松尾) |