貞享義民記念館を紹介、福島会員:5月の松史会・中世会終わる
風薫る五月、7つの学習部会の例会も順調にすすんでいます。 うち、松史会は、『松戸市史中巻』―{江戸時代中期、松戸宿の家並み}についてでした。当時の「分間絵図」や家並み絵図などから、今も残る旧街道筋のよすがをたどることになりました。 {…道中奉行は五街道を初めとする街道の分間絵図の編さんにかかり、文化三年(1806)に完成している。…絵図は一里を曲尺の七尺二寸(一分が三間になる)とした、縮尺の上からも極めて精密なばかりでなく、その描かれている家形、事物の内容もまた正確であって、写実的に描かれているので大変に参考になるものである。(中略)松戸宿は矢張り整った宿場であったらしく、家並みも立派に描かれており、よく見ると道ぞいに二階家があったり、土蔵があちこちにある…}(市史中巻p547~) また、中世の会は、『動乱の東国史⑥古河公方と伊勢宗瑞』の読み終わりのところまできました。鎌倉幕府の滅亡のあと、足利幕府によって鎌倉府再興が関東支配のかなめになるかとみえたのが、享徳の乱、30年間の動乱、その後の分裂抗争でした。大河tv『光る君へ』~源氏物語の500年後の話です。{…永正九年(1512)六月十八日に足利政氏は、町野氏俊や簗田政助などわずかな側近と共に、古河から小山(祇園城)に移座した(秋田藩採集文書)。一方、子・高基は関宿から古河入城を果たして名実ともに古河公方となり、政氏・高基第三次抗争は高基の勝利に終息した。しかし、政氏は同十三年十二月十七日の武蔵岩付移座まで、高基打倒をめざし精力的に活動したのである。…}(下野の動向と永正の乱の集結)。 たまたま、両学習部会の参加者である福島さんは、両方の講読当番の五月でもありました。その福島さんは、余談として、最近行かれた長野県安曇野市にある「貞享義民(じょうきょう・ぎみん)記念館」の紹介もされました。江戸時代前期、1686年(貞享3年)秋、過酷な年貢を求められてきた地元農民が、不作続きの中、年貢引き下げの騒動を起こす。一旦は、現地の松本藩重臣側は{要求となる願いを聞き届ける覚書}を渡すも、騒動の静まったあと、首謀者とその子弟を処刑してしまう。{…その刑は磔8人、獄門20人という極刑で、百姓一揆史上稀にみる多数であった。加助は磔柱の上から城をにらみ二斗五升挽を絶叫しつつ息絶えたと伝えられている。}。当時の双方の貴重な記録が残されているという歴史館へのご案内です。 |